今週「会議」に何時間使った?−労働生産性の面から見る会議の「成果」
みなさん、こんにちは。
今日から4回連続で「成果の出る会議」について、考えていきたいと思います。
日本人の労働生産性は低い
突然ですが、日本人の労働生産性は低いという話を聞いたことのある方は大勢いらっしゃるかと思います。
下記はダイヤモンド・オンラインの記事です。
先進34ヵ国で構成されるOECD(経済協力開発機構)加盟国の2012年の労働生産性を見ると、日本の労働生産性は7万1619ドルで、OECD加盟国34ヵ国中第21位。GDPで米国、中国に次ぐ日本がこの順位というのは普通であれば考えられないことです。また、就業1時間当たりで見た日本の労働生産性は40.1ドル(4250円)と、OECD加盟34ヵ国中で第20位となっています。さらに、主要先進7ヵ国では1994年から19年連続で最下位です「日本の生産性の動向2013年版」参照)。
この労働生産性の国際比較は、GDP(国内総生産)を”就業者数×労働時間”で割ったもので計算されています。少子高齢化が大きな課題となっている日本では、就業者数も労働時間も減少する傾向があり、それに伴ってGDPも縮小することが予想されています。
労働生産性=GDP/就業者数*労働時間
これを読み替えると
GDP=就業者数*労働時間*労働生産性
ですから、GDPを維持あるいは伸ばそうと思ったら労働生産性を上げる必要があります。
形のないものを作るときの”生産性”
生産性は、
生産のために投入される生産要素(労働力・原材料・設備など)が生産物の算出に貢献する程度。生産量を生産要素の投入量で割った比率で表す
『明鏡国語辞典』大修館書店より
と定義されていますが、この文言を見ると、「形あるものを作る現場」が念頭に置かれているような気がしますね。
このコラムを読まれている方の多くが、どちらかといえばオフィスワーカーであり、ものづくり労働者というよりも、知的労働者としての成果、つまり「形のないものを作る」ことを求められているのではないかと思います。
少し曖昧な言い方ですが、ここでは上記の「生産要素(何をどれだけインプットするか)」を「時間」、「生産量(何がどれだけアウトプットできたか)」を「成果」と仮定して、単位時間当たりにどれだけ成果を出せたか、という観点で見ていくことにしましょう。
会議に使われる時間は思いがけず長い
さて、私たちは働いている中で、一体どんな活動に時間を費やしているのでしょうか。
ご自分の普段の生活をちらっと考えてみてください。客先訪問で往復合わせて2時間、部長に頼まれた資料作りで3時間、部下のレポート添削と面談で1時間、合間にメールを読んで返事を書いて、電話に出て応対して…
そしてとりわけ多くの時間を取られているのは定例会、打ち合わせ、ミーティングなどの「会議」ではないでしょうか。
ある調査によれば、主要企業のホワイトカラーが総勤務時間内で会議・打ち合わせに使う時間は163分、取締役や部長ともなると200分を超え、ちょっとした打ち合わせを除いて会議だけを見ても、平均2時間近くを費やしていると報告されている。
また別の調査では、管理職が1日に会議や打ち合わせに費やす時間は3時間58分、つまりほぼ4時間(会議のみでは1時間40分)である。
『会議の科学』岡本浩一・足立にれか・石川正純著 新曜社(2006年)より
他の活動と違うのは、会議は1人では成立しないという点です。つまり先ほどの生産性の観点でいくと「生産要素」は、会議に参加した人数分だけ投入されることになるのです。
会議の成果とやめられない理由
一方で、会議の成果というのは、どう考えられるでしょうか。
今週参加した会議のことを思い浮かべてみてください。
- メンバーの全員参加が前提で、今週何をしていたかを報告する週報会
- 部長が招集し、課長が集まって前月度の営業成績を各課から発表する月度報告会
- 顧客のシステム構築プロジェクトの進捗状況を報告するプロジェクト進捗会議
一見よくある会議ばかりに見えますが、これらは全て「情報共有」が目的の会議です。つまり、伝達さえできればよく、「みなさん、状況理解できましたね」と言えれば終わりで、「成果」という概念がないのです。
では、これは無駄ですね、会議はやめましょうと言えるでしょうか?
情報共有だけを目的にするなら、報告書を作ってメール添付すればそれでいい、など、代替手段を考えることも可能です。しかし多くの会議がやめられないのは、「顔を合わせてコミュニケーションを取る」というところに、価値を見出す人がいる場合があるからです。集まって会議を開けば、「その場にいた人全員が報告を聞いていた」ということになります。
一方で、メールは1日に受け取る量が多すぎて、送っても読まれない可能性があります。つまり「確実に情報を伝えたよ」という念を押したい時に、若干形式的だとはわかっていても、会議を開くべきだとなるのです。
やめられないのであれば、会議を「成果の出るもの」に位置付けることが重要になってきます。
次回は「会議の成果とはどういうものなのか」について考えていきたいと思います。
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